ニューマン「ホムンクルスとその先祖たち」

William Newman, “The Homunculus and His Forebears: Wonders of Art and Nature,” in Natural Particulars: Nature and the Disciplines in Renaissance Europe, ed. Anthony Grafton and Nancy Siraisi (Cambridge, MA: MIT Press, 1999) 321–345.

Natural Particulars: Nature and the Disciplines in Renaissance Europe (Dibner Institute Studies in the History of Science and Technology)

Natural Particulars: Nature and the Disciplines in Renaissance Europe (Dibner Institute Studies in the History of Science and Technology)

少し長めにまとめました。
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 ヨハン・ヴァレンティン・アンドレアエは『キリスト教ローゼンクロイツのキミア的結婚』(1616年)で透明な男性と女性の像(=2体のホムンクルス)を作製する過程を描いている。彼によれば錬金術の真の目標は金の作成ではなく人工的な人間の製造なのだ。ルター派神学者である彼の主要な目的は、実際にホムンクルスを作製することよりは人間の精神的な再生に向けられていた。錬金術にこうした精神的目的を持たせるということも長い歴史を持っている。だがそれ以上にホムンクルスの概念が彼にまで到達した道すじは複雑である。ホムンクルスは主にオカルト諸学の中の2つの異なった伝統、すなわち(1)生物の人工的な産出のための実践的領域と(2)錬金術を擁護する文献の合流によって生まれた。この二つの伝統の融合は、アンドレアエの思想的源泉であるパラケルススパラケルスス主義者たちによって成し遂げられていた。
 
 アリストテレスによれば自然と技芸の産物には違いがある。『自然学』によると前者は自らを生み出す原理を自己のうちに、後者は外部に持っている(タネは木になるが、木材は勝手に家になったりしない)。だが同時に彼は同じ『自然学』のなかで「ところで、一般に、技術は、一方では、自然がなしとげえないところの物事を完成させ、他方では、自然のなすところを模倣する」(199a16)と言い、技芸が自然を改良しうるという議論の道すじを切り開いた。
 中世ラテン錬金術は、技芸が自然を改良しうるというアリストテレスの言明にもとづいて自然と技芸の産物のあいだの境界をなくすことを目指した。そして多くの錬金術師たちは、技芸と自然の業に本質的な差異はないという立場をとった。アヴィセンナによる(アリストテレスの名のもとに流通した著作での)技芸一般の限界についての言明(技芸は自然よりも劣っている)にもとづく錬金術批判をうけて、この問題はすでに中世から論争点になっていた。アヴィセンナが展開した錬金術批判はアリストテレス自身のものよりもはるかに強力で、多くの反論を誘発した。その一つが13世紀にすでに流通していた『ヘルメスの書』である。アヴィセンナ的な錬金術批判への反論として「ヘルメス」は、技芸の産物は様々な場合に自然の産物と同一であると反論する(たとえば自然についた火と火打ち石でつけた火は同じである...また自然に存在するハチとウシを腐敗させることで作られたハチは同じハチである)。だから「ヘルメス」によれば人間の業は、本質においては自然的でありながら同時に産出の仕方に関しては人工的であることが可能である(この結論は17世紀にフランシス・ベイコンが主張したのと同じ内容)。ここでハチのような低級の生命についても錬金術師の複製能力が主張されていることは重要である。牛の身体に腐敗を引き起こすことでハチを自然発生させることができるという信念は広く共有されていた。似たような議論は「ゲベル」にも見られる。ところで「ヘルメス」も「ゲベル」もこの力を低級の生命の産出に限っている。「ゲベル」は人間が質料に霊魂を付与することは不可能だと主張した。これらの立場は中世ラテン錬金術のなかで広く共有されており、今で言う脊椎動物の産出はほとんど論じられなかったし、論じられたとしても否定的に扱われた。

 1572年に出版された『事物の本性について』というパラケルススに帰された著作がある(たぶん彼の真作を改作したもの)。この著作ではまず技芸と自然の二分法が主題として扱われ、すべての自然の事物の生成は、自然だけによって起こるか、技芸(錬金術)のたすけによって起こるかのいずれかであると述べられる。ここでも「ヘルメス」と同様に、自然と技芸の産物に本質的な違いがないことが主張される。事物の生成/発生にとっては腐敗が重要であり、それには湿り気や熱が関係しているとされる。この著者は、胃で起こる腐敗(それによって食べ物は排泄物にまで変化する)と容器のなかで人工的に起こる腐敗が本質的には同一だと主張する。
 この議論は卵の孵化に拡張される。ここでも腐敗やそれを引き起こす熱が重要なのだが、(よく知られているように)めんどりがいなくても暖めた灰のなかで熱を与えて同じように孵化させることができる。それだけでなく、生きている鳥を密閉した容器のなかで焼いて粉と灰にし、馬の子宮のなかで腐敗のプロセスを経ることで、「刷新され復活させられた鳥」を生み出すことができるのだという。このようにしてあらゆる鳥を殺し復活させることができるのであり、そして錬金術師は再生と浄化をもたらすミニチュアの大火を生み出すある種の小さな神になることができるとされる(最後の審判の日における火による質料の浄化はパラケルススがしばしば論じるテーマであった)。
 これに続く箇所で著者は、人間さえも技芸と錬金術師の技能によって産み育てることができると述べる。まず怪物が論じられるが、なかでも重視されるのが人工的に生み出される怪物である。バシリスクは月経血を容器に閉じ込め、馬の子宮の熱で温めることで生み出される強力な怪物であるとされる(ひと目見るだけで殺せる)。月経血から生まれたバシリスクは月経の女性のような存在であるという。月経の女性自体も隠れた毒を持っているのだが、バシリスクには毒が濃縮されたかたちで含まれるので、女性そのものよりはるかに強力な毒を持つことになるのだと著者は考えていた。バシリスクは女性の不純さを凝縮したような存在だとされているのである。ホムンクルスは、女性の単性生殖から生まれるバシリスクの男性版のようなものだとされている。女性的な質料なしに生み出されるホムンクルスは、男性の知性的および英雄的な徳を凝縮したものなのである。男性の精液を腐敗させることで、透明でほとんど身体のないホムンクルスを作製することができる。このホムンクルスは成長することで巨人や小人のようになることもでき、また非常に強い力を持つとされる。なぜならホムンクルスは技芸によって生を受けたために技芸を内在しているからだとされる。

 すでに見たように自然物と人工物の区別や低級の生物の人工的な発生は中世ラテン世界の錬金術でも論じられていた。だが『事物の本性について』は明らかにそれらよりもはるかに詳細で大仰な人工生命の議論を含む。その思想的な源泉はおそらく中世アラビアの文書である。8世紀ペルシアの学者ジャービル・イブン・ハイヤーンに帰される著作のなかに人工的な人間の製造についての議論が存在する。その著作をパラケルススが直接参照した証拠はないが、プラトンに帰された『法の書』(13世紀にはラテン語で知られていた)が一つの参照元である可能性がある。そのホムンクルスの製法についての記述が『事物の本性について』とよく一致しているからである。より真正性が確かな著作のなかでパラケルススはポピュラーな伝承であるマンドラゴラ〔根の形状が人に似ている植物〕について論じている。パラケルススによればそのような植物が自然に育つことはなく、実はそれはホムンクルスなのである。たぶんパラケルススは、マンドラゴラが絞首台の下で刑死者の精液などから作られるという伝承を念頭に置いている。彼は「馬の子宮」で暖めるという表現をよく使うが、それは弱くて養育に適した熱の源泉という意味である。絞首台の下の土がそうした源泉としてはたらいているとパラケルススは考えていたのだ。

 パラケルススの『ホムンクルスについて』を見ると、人工的な人間の製造が強力な罪のイメージでもありえたことがわかる。それによると人間には精神的な能力と動物的な能力があり、後者に支配されれている場合には身体は不完全で霊魂をもたない精液を生み出す。そしてホムンクルスや怪物はここから生み出されるのだという(だから霊魂は持たない)。このプロセスは様々な仕方で起こりうるとされる。まず快楽を経験すると男性の中に精液が生成する。放出されて養育に適した場所に到達し、「消化され」たときに怪物あるいはホムンクルスが生み出される。パラケルススによれば女性にも同じことが言える。一方精液が体内にとどめられて腐敗すると奇形的な成長が起こり病気を引き起こすのだという。パラケルススは肛門性交によって生物が生み出されることも論じている。それによってホムンクルスが生まれる可能性こそ、パウロがを子どもの性的虐待を禁じた真の理由なのだとされている。
 では人はこのような種子の持つ破滅的な力からどのようにして逃れればいいのだろうか。パラケルススによれば結婚しない者には去勢するしか道は残されていない。女性にはその選択肢がないので男性の支配に服従するしかない。以上の思想は16世紀の基準からしてもかなり特殊なものだが、パラケルススは他の著作でも似通った議論をしている。
 パラケルススによれば生殖は罪ではないし、彼はしばしば合法的な婚姻を支持している。しかし少なくともある著作によれば、去勢によって精液を生み出すのをやめる者は洗礼によって肉体的再生を遂げ、さらに「天の魔術師」や「天の使徒」などと呼ばれる者になることができる。こうした可能性は生殖を行う通常の人には開かれていない。

 こうしてパラケルススは『ホムンクルスについて』で、ひとたび生み出された精液がホムンクルスを生み出さないための唯一安全な場所は女性の子宮であると述べていた。他方『事物の本性について』では、人間の種子が持つ生殖をもたらす悪徳は美徳に変化している。そこでは技芸によって自然の業をこえた透明なホムンクルスを生み出すことが論じられている。この議論は理性的な動物の製造に関するアラビアの伝統と、錬金術と技芸を擁護する中世ラテン世界の伝統が融合して生まれたものである。だが中世においてすでに、金や銀の製造さえ神の力への越権行為なのではないかという考え方があった。ホムンクルスに対する反応は当然それよりはるかに強いものだっただろう。17世紀のイングランドではホムンクルスを制作しうるという考えに対する反論がいくつもなされ、たとえば錬金術師のいうホムンクルスは単なる自動機械にすぎないなどと断じられた(ジョン・エドワーズ)。アンドレアエのようにホムンクルスキリスト教的な救済論と結びつけて論じることを許容する人々はほとんどいなかった。

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